小千谷報告。

2004年11月7日
さて、何から話したものか。

僕の勤める会社の協力工場の社長は、仲間と様々な場所でボランティア活動をされていて、今回の地震でも現地へ炊き出しにゆくことになりました。7月の新潟・三条の水害の際は仕事が外せずにお手伝いできなかったのですが、今回は二つ返事です。2tトラックに機材とあらかた下拵えをした食材を積み、乗用車とニ台、6人での現地入りです。闇雲に現地へゆくのはボランティアの現場では帰って迷惑で、今回もボランティアを統括するセンターから割り当てられた地域へ。往路にかかる時間は7〜8時間だろうと予測していたものの、前日に関越が開通したので日付けの変わるころには小雨そぼ降る小千谷に到着です。

関越は開通はしたものの、SAで軽油の給油ができるのは塩沢石打まで。越後川口SAはレギュラーのみの給油で、しかもトイレも使用できないとのコトでした。小出からは一車線での50キロ制限での通行。往路では雨と暗闇でわからなかったものの、遮音のためのつい立てやらガードレールはメチャメチャな状態で、道沿いの山にも崩れてる箇所が散見されます。開通を優先事項に敷き直したろう路面は段差がひどく、帰省に使う高速だけに状況の悪さがわかるのです。

僕の実家からは100キロと離れていないのに、この状況は何だろう。

小千谷の市街地を抜け、割り当てられた場所へ。雨のむこうに、歪んだり半壊したりの家があちらこちら。全壊して、ユンボで掻き集められてる途中の家もありました。道を尋ねた警官は茨城からの応援で、全く地理がわからずに参りました。そこらじゅうに停まっている車の中で休んでいる人も見受けられます。とにもかくにも、トラックの助手席で仮眠。

なかなか寝つけずに気がつくと雨は止んでました。現場でのドタバタと言うか、センターからの依頼は昼に二ケ所での炊き出しだったのですが、急遽朝にもやることにしました。社長たちは元々こうなるコトも見越していて、食材は充分に用意してきたのです。水道は復旧したもののまだ飲んじゃ駄目と言われているらしく(「でも飲んじゃったヨ」と呵々と笑い合うオバチャンたちの逞しいコトよ)、ガスの復旧はあと2〜3日はかかるとのコト。暖かいものは、何と言っても御馳走なのでしょう。
昼にはアツアツの寸胴をトラックの荷台に積んで、指定された団地へニ往復。ガタガタ揺れる荷台の外に流れる町並みは、傾いでいるものやら立入り禁止にされているものやら。
また、全国から派遣されてきた健康管理の職員に医師、老若さまざまなボランティアの方々、道を掘りかえしてガス管の復旧に励む人たち。

たしかに不満を吐き出す人や、キレる人たちはいるのかも知れませんが、少なくとも僕の会った現地の人たちは、他人への思いやりのココロや日常を維持しようとする意志に溢れていました。団地で軒先を借りた若い夫婦に、ひと段落したときに「場所も借りたしもうちょいとよそっていきましょうか」と声をかけると、「もういただきましたから、他のひとたちの分にまわしてください」との返事。「御馳走様でした、風邪ひいたりしないでくださいね」と声をかけてくれるおばあちゃん。
さて、僕はこうも自然に他人への思いやりを口にできるか。

詐欺やらボランティアに姿を借りた泥棒やら、どうしょうもない連中も溢れている。でも、ほぼ総ての人たちは日常を取り戻すべく前を向いて歩いてゆくコトだろう。それが市井に生きる者の剛さだと、信じたい。そして、チョンの間でも力を貸せたなら、僕にとっては嬉しいコトだ。まだまだ復旧には時間がかかるだろうケド、また機会があればきっと。短い経験でしたが、報告までに。


…ちょいとウケた話。炊き出しに並んでたオバチャンとの話なのですが。自分の子供が「地底人が騒ぎっぱなしで地震が止まない」って言ってるンだそうな。しかも、余震が夜に多いので「地底人は夜行性だからなんだ」とのコト。とっととマントルに帰れよ地底人!!

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